決められないことより決められることを。
足が速かったり、歌がうまかったり、何か際立つものがあると「おじいちゃんに似たんだね」とか「お母さんに似たんだね」とか、そういう話が家族の間や親戚の間で行われることがしばしばありますよね。
似たということ、つまりそれは、遺伝の話。
しかし、特技や特徴は何も遺伝的なものに限らず、後天的なものとも言えるわけで、その辺の関連性は今までは漠然としたものでした。しかし、進歩した科学によってその辺がいろいろとわかりつつあるようです。
遺伝する才能、しない才能、微妙なもの
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35673
結構おもしろい話題なので、既にこの記事をご覧になった方もいると思います。
・芸術的才能は後天的なもの
・身体的なものは9割遺伝の影響
・遺伝学から言えば「勉強は努力、芸術は才能」ではなく「勉強は才能、芸術は努力」
(経験値から確かにそうかもと思う)
などなど、興味深い内容がいくつもありますが、私がこの記事で何気に気になった文章↓
「仮に、数学が得意な父親と苦手な母親の間に、数学が得意な息子が生まれたとしましょう。でも、コンピュータを使ってこの一家の遺伝子を詳細に調べても、父親と息子にあって母親にない遺伝子というのは、意外と見つからないんです。」
この記事全体を読んでいると遺伝の影響の大きさを痛感する感じがしますが、この一文に限っては、そうでもないと言っているような気もします。
そもそも、私自身、「遺伝ですべてが決まってたまるかい!」と思っている人間なので、こういう部分に注目してしまうのかもしれませんね。笑
確かに、男に生まれたこと、この国に生まれたこと、この顔、この体型、体質に生まれたこと、などなど遺伝によって決められたものは多々ありますが、だからと言って、それに伴って発生する遺伝論、運命、宿命論というものは私は勝手に突っぱねてしまいたい発想を持っています。w(そんな話じゃつまらないから)
仮に、自分自身を車に例えるなら、
この車は走るのは遅いかもしれない、それなら、早く出発すればいい。
この車は左に曲がるのが苦手かもしれない、それなら、右に3回曲がればいい。
、、と私は考えます。
結局、その車を運転してるのは自分、ハンドルを握っているのは自分なのだから、
車という遺伝?宿命?みたいなものにとらわれすぎるのもいかがなものかと思うわけです。
それよりも、車の特徴を受け入れてからの自分のハンドリングこそが大事なのではないか、という発想。
自分の手を動かしているのは自分、自分の足を動かしているのも自分。誰の影響を受けることもありません。遺伝自体が腕を動かしているわけじゃないですよね。笑
ただ、ハンドリング(運転)するにあたって、基本情報や性質(操作方法?説明書?)を知る意味で遺伝の話は大切なことかもしれませんね。
以上、勝手に私の遺伝論でした。^^
ではでは。
PS.
怠惰は遺伝によるもの、という研究結果もありますが、(http://commonpost.info/?p=65475)親が「勉強しなさい!」と言って、息子が「遺伝が悪い」と言い返したら、なんだか身も蓋もないですよね。笑。こんな感じでなんでも「遺伝が、、」って話にしまうのはつまらないと私は思うのです。
とは、言いながらも、関連性は興味深いのでチェックしてしまうのでした。笑
センスはやっぱり後天的なんですね。その中でも文才だけ遺伝関連度が高いのはおもしろいですね。