目玉シールによって人は良い行為を行う(目玉シール=人の視線)
目玉シール=人の視線??
【目玉シールで募金箱が48%も増加との研究結果。「見られている感覚」が善意を呼び起こす?】
https://japanese.engadget.com/2019/05/04/48/
・なんの装飾もない募金箱に比べて、目玉シールを貼った募金箱には48%も寄付をする人が増えた
・目のイメージが人に対して向社会的行動、つまり、対価を求めない行動を起こさせる影響を与えることが示唆される、という研究があり、そのために募金額が増加?
・目玉シールが、その人の深い意識中に見られているという感覚を生み出すためではないか
・多くの人は、他人の目があるところでは目立って周囲に迷惑をかけるようなことをせず、良い人間であろうと振る舞うからではないか
以上、記事引用参考。
人の視線が人の行動を良くするのならば
目玉シールが人の視線を感じさせ、人に良いを行いをさせるということであれば、今の世の中が、もっと良い方向に行ってもいいのではないかと思うのは私だけでしょうか。
なぜなら、監視カメラ、スマホカメラ、PCカメラなどなど、今の世の中には、「人の目(視線)」となるものがたくさん溢れていますから。でも、それによって人の行いが良くなっている印象はうけません。なぜでしょう?
人間がカメラを「人の目(視線)」として認知していないから?
人の目があるから、良い行いをするという法則が壊れつつあるから?(人間の性質に変化?)
いろいろと推測できてしまいますね。
たとえば、東京は人口でいえば、無数に人の目がありますが、だからといって良い行いが頻発しているわけでもありません。逆に、田舎の方が、人の目を気にして、良い行いをする(悪い行いをしない)という流れが生まれているような気もします。それはもしかしたら、人と人との親密さ(顔がわれているかどうか)が大きく関係しているのかもしれませんね。
たぶん、「人の目」「顔がわれているかどうか」、というのは人の行動を決める大きな要因になるのでしょう。(芸能人はその点、一般人に比べてかなりの自制がかかっていると思れます)
ちょっと、話が飛躍してしまいましたね。。
とにかく、
募金箱に目のシールのケースは、顔がわれているかどうかは関係はありませんが、
「人の目(視線)」というひとつの要因だけで、人の行動にかなり影響を与えるということがよくわかるケースだと思います。(目玉シールでこれだけ影響があるのだから、本物の人の目はもっと大きい影響があると思う)
視線がなくても良い行いができるか
「人の目なんか無くても、良い行いをしろよ」と言いたくもなりますし、自分もそういう人間でありたいと考えますが、果たして自分はそれができているのかなと改めて考えてみました。
自分でこう書くのも恥ずかしいですが、
人が見ていなくても、道にゴミが落ちていたりしたら、拾ったりすることがたまにあります。
でも、それは本当に、誰も見ていない中での良い行いなのかどうかと考えると少し違うかもしれません。
なぜそう思ったかというと、
良い行いをすれば良いことが返ってくると、心のどこかで私は考えてそれを行なっており、それはつまり、どこかで神さま的な者が見てくれている、という意味にもなるのではないかと思ったからです。
人の目じゃない、神さま的な大いなる目みたいなもの。そのような目や視線をどこかで考えて、ゴミを拾っているのかもしれないと私は思ったのです。
そういう点で考えて、目や視線をまったく考えずに、純粋に良い行いができている人はどれだけいるのかなという疑問も出てきてしまいました。^^(何かしらの信仰心がある時点で、大いなる目や視線は絶対意識しているような気がしますからね)
想像や妄想が広がって、話が大げさになってきてしまいましたが、、、
改めて、
やはり、目や視線というものは、人間の行動に大きな影響を与えるものだと思うのでした。
(極論、地球に自分一人しかいなかったら、行動の良し悪しなんか考えなそう^^;)
目玉シール=人の目、視線、という発想から、
目や視線と人の行為の関連性について、うだうだと考えながら書いてみました。
良くなることを願って、人のこと、世の中のこと、どんどん見ていきましょう。見守っていきましょう。
ではでは
親が子を、自分の大切な人のことを、見守るということは、上の点からしても大事なことなのかもしれませんね。「監視」ではなく、「見守る」というのがいいですよね。(監視だと、相手が悪いことする前提のような感じがするので)